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M i d n i g h t D i a r y
遠い夜の、雪解けまで
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…眠れない夜には、いつも、同じ夢を見ていました。
誰もいない、広い部屋。扉の向こうから、母の声だけが、届く夜。
「困るなら、産まなければよかったのにね」
「要らない子」
ことばは、雪よりも冷たく、私のまわりの空気を、静かに奪っていきました。触れれば指先が白く凍りつく、あの液体のように。…私は、まだ六つか、七つだったでしょうか。
あの人たちにとって、家は、ただの宿でした。私の世話は、いつも、小雪さんのやわらかな手のなかにありました。両親が愛し合って結ばれたわけではないことを、私は、子どもなりに、もう知っていたのです。
ある夜、扉の隙間から漏れた、母のひとり言。
「あの人によく似てるわ。煩わしいことこの上ない」
「せめて、私に似たならまだよかったもの」
…その瞬間、私のなかで、何かが、音もなく凍りついたのです。
それからの私は、笑い方を覚え、淑やかな所作を覚え、「天使様」と呼ばれるための装いを、ひとつずつ、身にまといました。本当の私を、誰にも、見せないために。本当の私が、もう一度、誰かに切り捨てられてしまわないために。
…才能ではありませんでした。それは、ただ、息をするための、よろいでした。
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…六月のはじめ、雨の降る、夕暮れでした。
公園のブランコに、ひとり、座っていました。傘も差さず、ただ、濡れていました。私という存在を、雨が、少しずつ薄めていってくれればいい。そんなことを、ぼんやりと、思っていたのです。
そこへ、あなたが、通りかかりました。見知らぬ、高校生の男の子。
不器用な手つきで、私に傘を押しつけて、
「風邪引くし、差して帰れよ。返さなくていいから」
そう言って、足早に、去っていきましたね。
…おかしいでしょう。たった、それだけのことだったのです。たったそれだけのことが、止まっていた私の時計を、もう一度、かちり、と動かしてしまったのです。
風邪を引いてしまったあなたを看病し、おかずをつめたタッパーを、差し出すうちに、私は、やがて、気づきました。
あなたもまた、人に裏切られた夜を、ひとりで抱えているのだと。かつて信じていた友人たちに、深く傷つけられた過去を、抱えているのだと。
…私たちは、同じかたちに欠けた、ふたつの破片でした。比べる必要も、ありませんでした。あなたの悲しみは、あなただけのもの。私の悲しみは、私だけのもの。…ただ、それぞれを、静かに、認め合えたのです。
ある夜、長いあいだ隠してきた家のことを、震えながら、打ち明けたとき。あなたは、安易な慰めを、口にしませんでした。ただ、不器用に、
「見て見ぬふりしてやれ。泣くなら、泣けよ」
そう言って、私を、抱きしめてくれましたね。
「本当の私は、可愛げなんてない。臆病で、自分勝手で、性格も口も悪くて、好かれる要素なんてない」
震える声でそう吐き出した私に、あなたは、まっすぐな瞳で、答えました。
「俺は割と好きだぞ。お前の素を見ても、それが好きだって奴が、ここにいるだろ」
…修辞も、比喩も、ありませんでした。ただ、事実として、そう告げられたのです。
長いあいだ、固く閉じられていた、私の心のいちばん奥の扉に、あなたの手が、そっと、触れた。…そんな夜でした。
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…料理をするとき、私はいつも、小雪さんの言葉を思い出します。
「必ず幸せにしてくれる人の胃袋を、掴むのよ」
あのころの私は、その言葉の意味を、本当には、分かっていませんでした。けれど、いま。あなたが「美味い」と、頬をゆるめてくれるたび、私は、ようやく、その魔法のような意味を、理解するのです。
熱を出した夜のことを、覚えていますか。心細さに負けて、私は、あなたの服の袖を、つかみました。
「手を、握っていて」
…子どものような、わがままでした。あなたは、何も言わずに、ただ、手を握り返してくれました。
その、てのひらの、確かな温度が、凍りついていた私の何かを、少しずつ、…ほどいていきました。
そして、ある日のことです。あなたは、私の父と、向き合ってくれましたね。
「困るなら産まなければよかったのに。…これ、誰が言ったと思いますか。真昼本人が、言ったんですよ。あなたたちが、そう言わせるくらいに、真昼を、追い詰めたんです」
「真昼を放置しておいて、今更後悔するくらいなら、最初から、そんな態度を、取らなければよかったんです」
まだ、十七の、少年でした。それなのに、あなたは、私の痛みを、私自身よりも、明確なことばで、代弁してくれた。
そして父の問いに、こう、答えてくれましたね。
「幸せにする自信もありますし、幸せに、してみせます」
…私に向けては、こう。
「ずっと、隣にいるから」
その瞬間でした。長い冬のあいだ、閉じきっていた、私の心の何かが、小さな音を立てて、ひらいたのは。
空っぽだった胸の奥に、「安心」が、「愛おしさ」が、そして、「あなたを、私だけのものにしたい」という、ささやかで、けれど確かな願いが、…ゆっくりと、満ちていきました。
私は、ようやく、本当の意味での「帰る場所」を、手に入れたのです。
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…六月十四日。
かつての私にとって、誕生日は、誰にも祝われない一日であることを、確かめるためだけの、日でした。冷たく、空虚な、ただの、日付。
けれど、今年の六月は、ちがいます。
あなたから贈られた、実用的な、砥石。荒れた手をいたわる、ハンドクリーム。そして、淡い色をした、くまのぬいぐるみ。
…そのぬいぐるみに、私が、こっそりと紺色のリボンを結んでいることを、毎晩、それを抱きしめて眠っていることを、あなたは、まだ、知らないでしょうね。
体育祭の、あの日。私は、あなたの手を引いて、全校生徒の前で、言いました。
「私は、彼に支えられているんです」
「私にとって、彼は、いちばん大切なひとですよ」
…自分でも、おどろくほど、まっすぐな声でした。
長く、厳しい、冬を、ひとりで歩いてきた私の足元に、気づけば、小さな緑が、芽吹いていたのです。
凍ったものは、誰かが、手を添えなければ、溶けない。…そう、教えてくれたのは、ほかでもない、あなたでした。
あれは傘ではなく、
帰る場所への道しるべでした。
…世界でいちばん、大切な、あなたへ。
私を、見つけてくれて。本当の温もりを、教えてくれて。そして、「帰る場所」という言葉の意味を、私にくれて、…ほんとうに、ありがとう。
これからも、どうか、私のそばで、駄目な人で、いてください。
そして、わたしも。あなたの隣で、この、新しく芽吹いた心のままに、ゆっくりと、生きていきます。
――おやすみなさい。
明日が、やさしい日で、ありますように。
…そして、また明日。
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