夜のしじまに、あなたへ
――夜のしじまに、ひとつ、また、ひとつ。
遠い日の記憶が、ゆっくりと灯をともしはじめます……
六月十四日。
雨上がりの空に、まだ陽が傾きはじめたばかりの頃。
あの日までの私は、誰にも見つけてもらえない場所で、ただ静かに息をしておりました。
「要らない子」――
幼い耳に降り積もったその言葉は、雪のように冷たくて、けれど決して融けることはなく……
私は、いつしか手を伸ばすことを忘れていったのです。
天使。
そう呼ばれるたび、胸の奥で、誰かが静かに泣いておりました。
褒められても、微笑まれても、その声は、私の本当の名を呼んではくれなかった……。
ところが、ある雨の日のこと。
通りすがりの不器用な手が、一本の傘を、私に押しつけて去っていきました。
ただ、それだけのことだったのです。
ただ、それだけのことが、凍りついた時計の針を、かちり、と動かしたのでした。
タッパーに詰めた夕餉。
湯気の向こうで、あなたは言いました。
「美味しい」と。
まっすぐな、飾らないその一言が……
ああ、どれほど長いあいだ、私が待ちつづけていた声だったでしょうか。
夜更けの台所。
肩を寄せあうソファの距離。
熱に浮かされた指先が、無意識に、あなたの袖を掴んだ夜。
「手を握っていて」――
子供のような甘えを、あなたは静かに包み込んでくれました。
そうして、ある晩。
私は、ずっと胸の奥に閉じこめていた過去を、そっと開いて見せたのです。
あなたは、泣きませんでした。
ただ「泣くなら泣けよ」と、低く、優しく、それだけを言って……
重い鎧が、ひとひら、ひとひら、剥がれ落ちてゆくのが分かりました。
「ずっと隣にいるから」
その一言が、私の世界の真ん中に、静かに灯をともしました。
もう、迷わなくていい。
もう、ひとりではない。
六月十四日。
誰にも祝われることのなかったはずのこの日が、
今は、こんなにも温かい。
窓辺のくまのぬいぐるみが、夜の薄明かりのなかで、ほんの少し微笑んで見えます。
あなたが、私の帰る場所になってくれました。
空っぽだった胸に、ひとつ、またひとつと、灯がともってゆきます……。
――おやすみなさい。
世界でいちばん、大切なあなたへ。

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